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田中佳佑氏,「人文主義の範型としての詩的神学:ルネサンス期の寓喩観とその歴史的特性」を読んで [文学について]

田中佳佑氏,「人文主義の範型としての詩的神学:ルネサンス期の寓喩観とその歴史的特性」,『美学』243号(2013年)読了。

17世紀フランスの新旧論争に繋がる論点が丁寧に解説されており、非常に勉強になった。

私の博論は、19世紀末の詩人ステファヌ・マラルメの詩論においては音楽がアレゴリーの機能を帯びているという論を展開した。というわけで、アレゴリーは私の研究にとって重要なキーワードなのだ。

舞台芸術を文学と音楽の双方から見る場合、そこで中核となる概念がアレゴリーになるのではないか、と考えているのである。

その私にとって、ルネサンスを専門領域とする方の論文は非常に参考になった。

ただ、一つ、衝撃のフレーズがあったのでそれを記しておきたい。

「確かに聖餐の秘蹟におけるパンと葡萄酒はキリストという実体を表す可感的形象であり、寓喩[アレゴリー] を成すと言える。それだけに、秘蹟と古代秘儀との同源性への言及は、間接的にもせよ公式の信仰を脅かすに十分な見解であった。」(p.40.)

聖体拝領のパンがキリストのアレゴリーである、という見解は決して「間接的」ではなく、直接的に「公式の信仰を脅かす」ものだと思う。

そもそも聖体拝領のパンは決してアレゴリーではない。パンが聖体拝領を通して、キリストの身体そのものになる、というのがキリスト教の根本思想なのだ。少なくとも、私はそう学んだし、その理解に基づいてマラルメの典礼論を論じている。

アレゴリーとは何かの代理であり二次的なものにしか過ぎないのに対し、聖餐たるパンは決してそのような代理ではなく、実体そのものである、という理解だ。

だが、ルネサンス期に、アレゴリーを一次的な実体そのものに繋げて考えるという思想が発生したのなら、これほど興味深いことはない。

元来、キリスト教徒にとって、聖書に書かれている内容は、歴史的事実である。対して、神話=mythe/fableは、語源から言って虚構=fictionなのであり、つまりギリシアなどの異教の神々を主役にした作り話に過ぎない。例えば、イエスは過去に実在した人物であるのに対し、ゼウスやアポロは古代ギリシア人が想像力の中で作り出した架空の神々というわけだ。

このような神話と聖書の関係は、キリスト教の歴史において非常に重要なものであると言える。そして現在文学と呼ばれる作品群は、神話=フィクションの系譜の上に存在していることになる。

ここで、「文学」という用語が現在のような意味を獲得したのがここ100年ちょっとのことであり、それ以前においては「詩」という総称のもと「神話=フィクション」が紡がれていたということを思い出しておきたい。

であれば、田中氏のアレゴリーの議論が「詩的神学theologia poetica」という言葉に収斂していくのは極めて自然のことである。元来、作り話を語るためのものである詩で、神と真理を語るのは不敬だとされていたのである。対して、もし本来はオリジナルに対して二次的な位置しか占めない代理物であったアレゴリーがオリジナルと繋がっていると考えて良いのなら、架空の物語が真実へと繋がっていてもおかしくないことになる。

このように、古代ギリシア・ローマの学芸をキリスト教思想とごちゃまぜにしたルネサンス期において、アレゴリーの名の下に架空の話を通して真理へと到達することが出来る、と考えられるようになった、という具合に理解すれば、その後の学芸の発展の歩みがすっきりと理解できるようになる。

例えば、17世紀フランスの新旧論争においては、「キリスト教叙事詩は可能か?」、つまり叙事詩という神話=フィクションを語る分野で、神のことを語って良いのか?という論争が巻き起こることになることを言い添えておく。

まさに田中氏の論文は知的刺激に満ちたものであった。


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コメント 1

goofy

初めまして。
某所で黒木先生に大変お世話になっております。
お陰様で、フランス語がどんどん面白くなってきています。

ブログ更新、楽しみにしております。
by goofy (2016-02-20 20:42) 

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